001 その一歩がゆるゆると


 窓のカーテンは閉まっている。壁際のテーブルの上で小さなランプが控えめに灯をともし、薄暗い室内に柔らかな陰を落としていた。
 耳を澄ますと雨音がする。九条はそっと窓辺により、厚いカーテンの隙間から見える空を覗いた。灰色の雲は日を通さず、ほんの一時間前と変わった様子もなかった。
 ベッドに横たわる少女は前後不覚に眠ったまま身動きもしなかった。眠っているというよりは昏睡していると言った方が近いのかも知れない。九条は何度目かにそのベッドを見やり、上掛けが微かに上下しているのを確認してから部屋を出た。
「九条さん」
 階段まで行くと下から呼ばわる声がした。ナツミは途中まで足をかけた格好で、階上の九条を見つけたらしい。
「お茶を淹れましたから、どうぞ」
「ああ」
「すみません、今日はシンが遅くて」
「いや、突然で悪かった」
 背を向けかけていたナツミは首だけで振り返った。
「何だ」
「いいえ」
 速射のように答えて彼は今度こそ先へ行く。何の前触れもなく訪れた事に対してのナツミの一言目は非難の眼差しだったので挽回を試みたのだが、少し遅かったらしい。ただの珍妙な発言と取られたか――第一ナツミも一時間前の自分の態度など覚えていまい。九条が突然やって来る事は茶飯事でも、昏睡した少女を抱えている事は非常だったのだから。
 いつにないものを抱えていたのでナツミは困惑したらしかった。寝かせる場所を貸してほしいと言うとすぐに空き部屋のベッドを用意してくれたが、その後も何やらせかせかと動き回って、お茶に行き着くまでにいつにない時間がかかっていた。
「純子(すみこ)もいないのか?」
「ええ、仕事で。シンの助手です」
「珍しいな」
「何だか立て込んでるらしくて。……というか、九条さんね」
 リビングのテーブルにはポットとティーカップが二脚。ナツミはカウンターからレモンの入った小皿を移し、ポットの具合を確かめて慣れた手つきで注いでゆく。片方のカップを九条に差し出し、もう片方を自分の前に置いて、溜息ともつかない吐息をひとつ。
「どこで拾うんですか女の子なんて」
「片田舎の道端で」
「落ちてないでしょういくらなんでも、普通」
「シンがモノを拾って来るのと似たようなものだ」
「そりゃ、でもね、シンが拾って来るのには身内とかないですから。人の子供はまずいですよ」
「そうかな」
 適当な相槌を打って、お茶を一口。聞いてますか、とすかさず向かいから声が飛ぶ。
「聞いている。だから悪かったと言ってるよ」
 ナツミは納得したふうもない。九条はもう一口お茶を飲み、それからカップを戻した。
「私もどうしようもなかったんだ。本当はその場でシンを呼びたかったんだが、居所が分からなくてね」
 仕事なら仕方ない。それに、すぐにシンを呼べたところで行き着く先は同じだったという気もする。
「だからしばらくここで寝かせてやってくれないか」
「その接続語の意味がちょっとよく分かりませんが」
 笑うでも首を傾げるでもなくナツミは言い切り、いいですよ、と続けた。
「どうせそのつもりで拾ったんでしょう」
「勘がいいな」
「ただの経験です」
 回数を重ねれば傾向も見えて来る。もっとも、いくら九条でもさすがに人を拾って来る事などは滅多にないのだが。
「――で、後は、基本的な事なんですけど」

 


 水の音がする。雨だろうか。薄く瞼を開くと淡い橙色の陰が揺らいだ。広い部屋、壁際のテーブルにランプがひとつ。
 しばらくそれを眺めて、もぞもぞと身動きしてみた。寝ているのは大きなベッド。掌で触る布地はふかふかとしている。少し首を巡らすと窓が見えた。厚い古風なカーテンに閉ざされている。
 頭の中はすっきりしていて上手くものを考えられない。ここがどこなのか、とか、どうしてベッドに寝ているのかとか。
 気分は悪くなかったので起き上がってみた。ベッドの端までは這って行った。軽くて柔らかくて温かい上掛けをそっとめくり、足を下ろしてみる。絨毯、これもふかふかだ。
 ――それで、どうする? 立つ、のだろうか。
 身体を支える手に力を入れて、体重を足の先へ下ろしてみた。すとん、と絨毯の上に立った。
 ――それから?
 なぜか少し困った。窓と、ランプと、足下を見比べてみる。そうして気付いた。見た事のない服を着ている。柔らかくてさらさらとした肌触りの、真っ白い服。なおさら困ってしまった。もうちょっと寝ていた方がいいのだろうか。それとも起きて行くべきなのだろうか。
 部屋の出口は――あれかな、と窓と反対側を向いた時、かちゃりと控えめな音がしてその扉が細く開いた。
 そろそろと中の様子を見ながら入って来たのは男が二人。先頭の少し若い方は、ベッドの横に立つこちらを見つけて固まったように動かなくなった。瞬きするほどそうして、ぱたぱたと小走りに寄って来た。
「起きたんだね、ヒサキ」
 ぱた、と瞬き。その音はよく知っている。でもなんでこんなふうに聞くのだろうか。
 足を、前へ。ふらりと、一歩。
 見上げた目線に合わせるように、彼は身を屈める。
「……なんで、知ってるの?」



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