2話

 二本足に背中をあずけて、少年は炎に向って手を伸ばした。こういうとき一人ならば苦労しなかったのにと思い、アズベルトと行動することが間違っている事のように思えた。水浸しの木をも燃やす力を持っているのだから。
 しかし根気よく男が火種を作ろうとしたので、彼はそれを真剣に見つめていた。もし力が使えなくなったとしても、覚えておいて損はないだろう。
 ようやくついたところで一安心、二人は笑って燃えやすいものから燃やし、ようやく小枝に火をつけた。
 簡単な食事も終わり、目がとろとろとしてくる。
 アズベルトはというと、まだ眠くないのか火の番をして、楽しそうに鼻歌まで歌っている。それすら子守唄に聞こえてくるのだから、少年は重症なほど眠い。しかしその鼻歌はどこかで聞いたことがある。だから余計安心するのかもしれない。
 昼間喋らなくなった彼の気持ちは今でもわからない。思えば彼の過去の話は赤毛の女性にまつわることだけで、他は何もない。年齢を考えれば妻や子供がいてもおかしくないが、こうして一人旅をしているという事はどこかで雇われるために放浪していたのだろう。傭兵業ならば今の時代、足りないくらいだから。
 とはいえ戦争が起こっているわけでもなくて、誰のものでもない土地を支配するために国が動くのを手助けするか、反対に妨害するかくらいで。
 そういえばタキスエレムは、南に広がる広大な誰のものでもない土地を支配しようと徐々に南下を始めている。つい先日タキスエレムに近い村が傘下にはいったし、隣接する町も陥落した。
 とはいえ簡単にタキスエレム人になれるわけではない。ほぼ奴隷のような扱いだから村や町はひどく抵抗する。彼らが非人道的なわけではなくて、単純に生活水準が落ちるからだと言っていた。
 しかし新たにタキスエレムの領土になった土地での暮らしはほとんどがひどいものだった。毎日の食事にも困る始末で、場所によっては焼け野原だったりもした。彼らは争いによる侵略をし、抵抗する人々を斬り捨てていくのだから。
 国には多くの人間が暮らしている。今までタキスエレムではなかった人々が死のうが彼らには関係のない話なのだろう。
 それらは総じて“町荒らし”と呼ばれ、主に村や町が恐れている出来事だ。旅人が恐れるのが人攫いなら、誰のものでもない土地に平穏など全くないわけだ。
 だから故郷を捨てて旅をする人は多い。もしくはセレステアに逃げ込む。あの国ならばあたたかく迎えてくれるのだから。自らセレステアの一員になるため町を売る人もいる。そこは指導者の判断によるが。
 もしかしたらアズベルトもそういう事情があるのかもしれない。
 とはいえ彼はセレステア人だと自ら宣言した。たしかに特徴的なセレステア人に見えるが、もしかしたら保守のための虚言かもしれない。そうだったとしても害があるわけではないのでつっこみはしないが、少年が考えるよりも不幸に遭っている人は多いのだろう。
 シドニーは目をこすり、体勢を整えた。いつのまにか身体がずって、背中が地面につきかけていた。
「眠れないかい?」
 子供をあやすような声で、男は言った。
「まぁ、眠いけど、落ち着かないです」
「もしかしたら俺のせいかな」
「かもしれないです」
 旅を始めてからはずっと一人だった。だから余計そうなのだろう。
 左手中指にはめた指輪を外し、炎に照らす。内側に彫られた紋章は剣と鳳を司っていて、それが見えなければただの銀色に輝く質素な指輪だ。
「離れた場所で休もうか?」
「いいえ、気にしないでください。そのうち慣れると思います。だから、いてもいいです」
「そう。ありがとう」
 指輪の小さな穴に、赤が見える。それが炎でない事はわかっていた。
 今は夜だったと思うのに、シドニーは眠たそうに瞼を擦った。
「ところで、今夜はやけに明るいですね。西の空が赤い」
 指輪をはめて左手で示すと、アズベルトは血相を変えて起き上がった。
「ま、まさかこんな場所まで!」
「どうかしましたか?」
「あれは町荒らしだ!」

 アズベルトは少年を置いていく勢いで四本足に跨り駆けて行った。置いて行かれるわけにもいかないので二本足を起こして追いかける。四本足の脚力には勝てないので距離は開くばかりだが、目的地はとてもわかりやすいので不安に思うことはなかった。
 西の空は闇を照らす光の如く赤々と、離れた場所でも焦げ臭い。
 現場はひどい有様だった。今まで一度も“町荒らし”の現場に居合わせたことがないのでここまでひどいとは思わなかったが、人攫いといい勝負だ。逃げ惑う町の人々は悲鳴をあげて、町荒らしをする男たちは彼らを追いかけ回していた。
 町から離れた場所にぽつんとたたずむ木の側に四本足がいて、少年を見つけて嘶いた。
「アリスもここにいて。いいか、四本足が逃げたら一緒に逃げるんだぞ」
 四本足の手綱と結ぶように括り付けて、優しく身体を撫でる。わかっているのかいないのか、アリスはキュンキュンと寂しそうな声を出した。
 それを無視して少年は歩いて町に近寄り、近くまで来て足を止めた。
 赤い、空が、町が表現の仕方がわからないくらい赤い。自分の赤毛よりも汚らしい色で、勢いを増していく。命からがら逃げ延びた町の人はそのまま町を離れ、転がるように森へ逃げていく。
 どうすればいいのかわからなくて少年は、人を眺めては炎を眺め、辺りを見回すだけだった。
「そうだ、アズベルトさんはどこに……」
 肌が焼けるように熱いが少しずつ歩みだし、形をなくした門の前まで来て、丸腰では危険だと気付いた。急いで背中にある護身用の棒を取り出し、目の前から長い得物を振りかざし迫り来る人間にむけて、棒で大地を抉るように大きく振るった。
 すると風の勢いが突如変わり、男に向けて猛威を振るう。鋭い牙の風刃は彼らの肉を裂き、戦意を削ぐ。
「な、何だ一体!」
 特徴的な男の声がして、三人が後からやってきた。一対四とは、なんと不利な状況か。
 男たちは一様に動きやすい皮の胸当てを身につけていた。頭部は布で隠してあるが、闇の中でも炎の光を受けて目立つ金髪が、彼らの出自を示している。
 目を細め、少年は棒の先端に意識を集中した。その場所には紋章が描かれた布が巻かれてある。
 大きく振るい、今度は規模が二倍にもなった風刃が、火を切り裂き攻める。
「ぐあっ!」
 一人が悲鳴をあげて崩れた。無防備な両足をずたずたにされた男は尻餅をつき、必死に逃げようとじたばたする。勘付かれたかと思ったが、そうではないようだ。錯乱状態に陥ったようで、意味不明なことを叫んでいた。
 とんでもない状況の仲間を放っておくことが出来なかったのか、それとも町さえ焼ければよかったのか。甲高い笛の音が聞こえたかと思うと、男たちは逃げるように東の門から姿を消し、少年の側には怯え震える町の人々だけがいた。
 シドニー自身、彼らと同じくらい息が上がっている。酸素が薄いとかそういうのもあるだろうけれど、力を使うと体力を消耗する。わかってはいたが、無理をしすぎた。
「ねえ、セレステア人の戦士を見なかった?」
 近くにいたセレステア人風の容姿の男に聞くと、彼は震える声で答えた。
「ああ見た、東へ逃げろってそう言って、彼は我々を襲う輩を追い払っていたよ」
「あの人凄いよ、一人で大勢相手に無敵なんだもの!」
 となりにいた妻らしき女が興奮気味に叫ぶ。
「じゃあまだ中にいるかもしれないってことか。ねぇ、ここにいても仕方がないから森まで逃げた方がいいよ。町のことは残念だけど、命があるだけ感謝しないと、ね? セレステア人の戦士に顔向けできないよ」
 そういうと町の人々は口々に「そうだな」と言い、森にむかって歩き出した。こういう時人攫いが起きる可能性は低くないが、森の中にいたほうが、町荒らしの残党に襲われる可能性が著しく低くなる。どちらにしろ燃えさかる町にいても、しょうがない。
 シドニーは町の中へ一人入っていった。すぐそばで焦げた人らしきものを見かけたがわざと見ぬ振りをして、アズベルトを捜した。
 町荒らしの姿も見えないし、襲われてからだいぶ時間が経っていたのだろう。足の速い彼らの事だから、今頃逃げ切っているかもしれない。
 こういう町荒らしが南に近い場所で起こるなどと誰が想定できただろう。それを想定しての町荒らしだろうから、性質が悪い。自分が実際被害にあっているわけでもないのに、気分が悪い。
 思った以上に町を駆け巡る火の勢いは強く、普通の消火活動では間に合わない程度にまで発展していた。遠くで木材が力を失い崩れる音がして、火の粉が舞い上がる。
 もし、逃げ遅れた人を捜して彼が一人町の中にいるのならば。未だ人の声も姿も見かけない、この近くには誰もいないのだろう。
 少年は広場らしき中心で膝をつき、未だ水が保たれた噴水の水面に指先で触れた。噴水の中心にいる少年天使の像は長い年月の間に滑らかな肌を手に入れ、炎に襲われる町をただ眺めている。
 玉のような水が指先に集中し、落ちかけるところで地面に紋章を描く。書き上げられたそれは、かつて師匠と呼んだ男と同じものだった。
「どこまでもつか分からないけれど、せめて町の火だけでも消してくれ」
 力強く念ずると、紋章は輝いた。噴水から水が溢れ出し、ばねのように跳ね上がる。
 巨大な噴水のようにそれは水滴を撒き散らし、勢いを増す炎に降り注いだ。水は止まらない、その上雨が降り出したように思える。
 一時間もかからず、炎は完全に気配を消した。
 完全に体力不足だ。少年はからっぽになった噴水のふちに背をあずけて項垂れた。少年天使の像も、どこか満足げに笑んでいるように思える。それすら恨めしい、ただの像に向っての感情ではないと思いつつも、誰かにこの感情をぶつけなければ、気がおさまらない。
 一日二本足の上で酷使した身体と精神力、その上無駄に放ったばれない程度の風刃、炎が消えるまで使い続けた力を思えば、この脱力感は否定できない。
 力を使えば体力を消耗する事くらいわかっている。しかしアズベルトを見殺しに出来ないので炎だけは消そうと思った。それから彼を探そうと思ったのに、これでは動くことが出来ない。
 空は白み、星は姿を消し始めていた。
 町の人が帰ってくる気配もないので、広い町の中でたたずむ自身がおかしく思える。何でこんなことに力を使っているのだろうと。
 彼が幼い頃に叩き込まれた全ては、生きる術と、彼の師匠が扱うことが出来る力のことだった。
 それは普通の人では扱う事の出来ない不思議な力で、あまり知られていない力でもある。知っている人はそれを“魔術”と呼び、扱える人を尊敬した。実際その力を持つ人間は一握りで、資質の問題だ。
 資質がなければどんなに勉強しようとも扱えないし、すぐ体力を消耗してしまう。
 実際術者を育てようと思えば、まだ何もわからないような子供に叩き込むのが一番なのだ。資質云々の話で、力を持つ者ならばその人が術者に向いているか向いていないかはすぐわかる。シドニーも、資質を持つ人間の一人だった。
 資質はあっても、大人になってから勉強したとして立派な術者になれる可能性はないに等しい。幼い頃からの徹底した教育が必要で、秘められた能力を引き出すにはやはり子供の方が天と地の差ほど簡単なのだ。
 だから“なるべくして育てられた術者”と“なりたくてなった術者”では力の差が歴然としている。
 シドニーは“なるべくして育てられた術者”なので力は有り余るほどあるが、体力不足でそれを発揮する事が出来なかった。術者の基本は知識よりも体力、彼らだけに伝わる秘密の言葉である。確かに術者は見るだけならやたら筋肉質が多いし、もしかしたら肉弾戦の方が得意じゃないかと思われる人が多い。
 それに術者といえば高給職である。しかしシドニーは偏屈師匠に育てられた何も知らない子供だ。その力を見せびらかしてはいけないものだとわかっているから、一人の秘密にしている。世間に知られる術者の殆どは権力者の側にいるから。
 誰かのために力を使うのは不本意なのだ。
 彼の最期の言葉を思い出すから、非常に不本意で、情けなくなってくる。
 身を削る相手など、彼しかいないに決まっているのに。
「シドニー、大丈夫か?」
 四本足と二本足を引き連れたセレステア人の男がもやの中から姿を現した。その姿にひどく安堵して、体中の力が抜けた。
「なんだ、無事だったんだ」
「これくらいで倒れるわけがないよ。君こそ、そんなところでどうしたんだ。それにあの雨は」
「アズベルトさんを待っていたんですよ」
 力なく微笑むと、男はまた眉間にしわを寄せた。
「大丈夫か……って、そうじゃなさそうだな」
「寝ていないから」
 目を伏せてそう言うと、アズベルトはシドニーの頭を撫でた。抵抗する気にもなれないので、ついでに目を完全に閉じてしまう。
「南の方は無事な場所が多いから、貸してもらおう。ほら、しっかりしろ」
 答える気にもなれない。そのまま少年は、深い眠りに落ちてしまった。


「その力は命を削るもの、安易に使うな」
 赤毛の老人がそう言うので、幼い赤毛の少年は背中を小さくした。
 これから老人の説教が始まる、これが延々と、どうしようもないくらい長いのだ。しかしこういうことでもない限り話す機会がないので、少しだけ嬉しかった。
 老人は少年の師匠にあたる人で、育ての親である。
 顔に刻まれたしわはまだ浅く、赤毛もしっかりと生えていて、歳相応の外見をしている。
 頭の中はどうだろう。どちらかといえば固い方で意にそぐわない事が起きれば鬼の形相になる。
 それでも愛されているのだと感じるのは、なぜだろうか。
 少年にとって彼が全てで、彼以外を知らないからそうなのかと思えば、それは違う。本で読むような暖かな家庭に憧れても、どこかで彼の存在を消しきれない。少年の世界には、必ず老人が存在していた。
「魔術とは万能なものではない。年齢には勝てないし、体力作りを怠ればその分力も落ちる。体力を消費するものならば加減を考えればいい。しかし、絶対に命を犠牲にするな」
 どうして、そう聞こうとして少年は唇を結んだ。
 くだらない質問だと切られてしまうか、お尻を思い切りぶたれる。基本的に彼は質問を受け付けない。彼が許した時のみ質問が出来るのだから。
「私は確かにお前に命を削る術も教えた。だがな、それがどういうことなのか理解できるまで、絶対に使うな」
「わかりました」
 怪我をした兎を膝の上から下ろし、逃げる兎を寂しそうに眺めた。
 小さな怪我だから治してあげようと、そう思っただけだった。それでも老人は咎める。やはり教えられたこの力は使う事などないのだろうか。
「大きくなれば、その力を忌々しく思うだろう。だが同時に、文字通り命に代えても守りたい者が現れるかもしれない。だから、今は絶対に使うな。ましてや私達の食卓に並ぶ小動物や、私にもだ」
「はい」
 男は満足したように頷き、背を向ける。機嫌がいいときに聞こえるあの鼻歌が聞こえてきた。


 気がつくと、日が昇っていた。額に置かれた冷たいタオルがずって、ペシャンと音を立てた。
 小さな部屋は二階か三階だろう。窓から見える景色は空ばかりで、小さな部屋が屋根裏部屋であることを強調しているかのようだった。
 だるい身体を起こし、傍にある背の低い棚の上にある桶にタオルを放り込み、ドア付近にかかっていた黄色い線の入った白いコートを着た。
 窓から見下ろすと、人の姿がみえた。ここがどこなのか一瞬考えたが、右方をみれば焦げ跡が見えた。ここは、意識を手放してしまった町と同じ場所だろう。
 ぼうっとする頭を振るい、部屋を出た。短い通路を歩くと下り階段が見えて、降りると人の声がはっきりと聞こえてきた。
「お兄さん、起きたのか!」
 どこかで見た事のある顔が目の前に現れて、眉を顰める。
「どこか気分は悪くないか? そうだ、あんたの連れは家の外にいるから。ほら、行っておいで」
「アズベルトさんが?」
「ああそうだ。君とあの方のおかげで町の全滅は免れたよ! ありがとう」
 男はとても嬉しそうに手を握り、上下に降った。一緒に身体まで上下してしまうか、腕がもげてしまうのではないかと思ったが、厭な気分ではない。つられて少年も笑んだ。
 背中を押されて外へ出ると、すぐ傍に人だかりがあった。彼らはシドニーに気付き、まるでありがたい物のようにべたべた触りだした。
 目をぐるぐるさせて混乱しているとアズベルトが優しく嗜めて、人を散らしてくれた。
「元気そうだな」
「アズベルトさんこそ。って、たしかぼくの方がヘロヘロだったね」
「しっかり寝たようだし、よかったら出発しないか?」
「もう出発するのですか?」
 シドニーではなく、別の少年の声だった。アズベルトを真似て剣を背負い、残念そうに眉を下げている。
「急ぐ事でも出来たの?」
「まあそんなところ。君に無理して付き合ってもらうつもりはないけれど……とりあえず意見を聞こうと思って」
「今更何を言うんですか。一緒に南へ行きましょうって言ったでしょう。戦士さま」
「まいったな」
 頬を少しだけ染めて、男は頭をかいた。
「四本足もアリスも、しっかりご飯を食べたからいつでも出発できるよ」
「ぼくも大丈夫」
 二本足と四本足を世話していた小屋から二頭を連れ出し、頭を下げてお礼を続ける町の人々を背に、二人は再び旅立った。
 町の焦げ臭いにおいが体中にこびりついているように感じられたが、それはすぐにとれた。変わらない晴天が続き、街道を走る二人を後押しした。
「それで、急ぐ事って何ですか」
「港から来た人から聞いた話だけど、ついさっき襲撃を受けたような跡があったって。といっても君は丸一日寝ていたから、だいぶ経っているけどね。港の近くだといっていたから、今からだとまた夜になりそうだ」
「つまり人攫いは南下しているんですね」
「そう。あまり考えたくない事だけど、もしかしたら攫った人を南へ連れて行くつもりじゃないだろうかと思って」
「町荒らしに人攫いに、こうも立て続けだとどっちも必死になっているみたいですね」
 先を行くアズベルトが振り返り、眉を顰めた。
「だって、数年前まではこんなにひどくなかった。たまに襲われたり、たまに攫われたりだったでしょう」
「確かに、ね」
 一度言葉を切り、男は続ける。
「俺はたまにであっても常にであっても、許せないだけだ。このまま町荒らしが続いて平穏を崩されたり、攫われて夢見た将来を奪われるのはひどい話だと思うから」
「ぼくにはそういう気持ちがわからないです。あの時だって、アズベルトさんは町荒らしを無視することが出来ました。もしアズベルトさんがいなければ、ぼくは絶対に無視をしていました。むやみやたらに危険な事に首を突っ込む暇があったら、保身を考えます」
 男を批判しているつもりではないが、彼との考えの違いに少しだけ腹が立った。まるで絵に描いたような善人の台詞で、ありえないことだと否定したくなる。
 しかし少年の言葉に怒るわけでもなく、男は四本足の足を緩めた。同時に二本足も速度を落とし、並行するように二頭は歩く。
 黒い毛並みの角あり四本足は悠然と前を見据え、それに跨る男は視線を落とした。
「確かに、君の言うとおりだ。俺も一時期そういう考えだったから」
 引っかかる言葉を残して、男は空を仰ぐ。
「君には、命に代えてでも守りたいと思うものがあるかい?」
 少年は目を見開き、すぐ視線をそらした。夢を思い出す、そして、白髪のあの人を思い出す。思い出すたびに口の中が苦くなり、なぜ彼の言うとおり逃げてしまったのかわからなくなる。
「俺にはあった。けれど、守れなかった」
 手綱を握る男の右手が宙を漂い、掴んでも掴んでも逃げる空気を追い求める。彼の目には何が映っているのだろうか、悲しみの色だけはっきりとわかる。
「痛みがわかるからこういうことを言えるのかもしれない。奇麗事だとわかっているけれど……結局俺は守りたい者だけを追い求めて、見つめなおさなければならない多くを捨ててきた。今更帰れとか、帰れないとかそういう年齢じゃないけれど、振り向けない気がして。
 何度も腕の中をすり抜けて消えていく幻影を見るんだ。夜や、炎の中だと。特に赤は印象的で、目に入るたび記憶が不思議な幻想を呼び起こす」
 自らの赤毛に触れて、少年は瞳を歪めた。
「それって、赤毛の女の人の事?」
「それもあるし、もう一度出来た大切な人のことでもある」
「ああ、痛みがわかるからって事は……」
 唇を結び、少年は二本足の腹を軽く蹴った。四本足の前に出て、どんな顔をしているか悟られないように顔をあげたまま走る。
 ああして微笑むその下は、いつも苦痛に歪んでいるのだろうか。そう思うと他人事のはずなのに、胸が痛んだ。
「忘れる事は出来ないんですか?」
「無理だろうね。一度知れば二度目が怖くなる。二度目があれば、三度目が余計怖くなる。だからもう大切な人を見つけないようにと思っているけれど」
「それで旅ですか」
「言っただろう。俺は赤毛の女性を捜しているって。ほんの少しの希望を大きくするため、そして悲しみを消すために放浪する駄目オヤジだよ」
「自分自身で駄目オヤジだなんて、自虐的だなぁ」
「どういたしまして。実際もうそんな年齢だし、これから呼ばれるなら早めに心の準備をしておかないと」
「とりあえず独身なんでしょ?」
「まぁ、否定はしない」
「じゃあまだ若いじゃない」
「そういうけど、もし息子が生きていたら、ちょうど君くらいだよ」
 少年はふと言葉を止めて、右眉を上にあげた。
 振り向けば、きっと彼は複雑な顔をしているだろう。だが、今の発言は一体どういうことか。
 息子が生きていたらちょうど少年くらい。つまり結婚して子供をつくって、多分二人を亡くして、赤毛の女性を追っていて。
 そこまで考えてようやく気がついた。赤毛の女性は多分、男にとって初恋の女性なのだろう。そう考えると納得がいく。
「なるほど、そういうわけでぼくを子供扱いするんですね」
「気に障った?」
「いいえ。ぼくには父親がいないのでどういう気分かいまいちわからないんですけど、嫌ではないですよ。じゃあこれから、アズベルトさんのことを“お父さん”と呼びましょうか」
「なぜだか、急に老け込んだ気がする」
 わざわざ“お父さん”の部分の声色まで変えて言ったのに。そう思いながらもシドニーは小さく笑いを漏らした。
 まだ若い気でいる男も、笑う少年につられて苦笑し、四本足の脚を速めた。すぐ二本足の隣へつけることができるから、余裕の表情で彼は覗き込んできた。
「あのときの言葉を取り消しておくよ。君は小賢しいじゃなくて、生意気な子供だね」
 わざと唇を尖らせてみせた。


2005/4/10

2style.net