7 竜の涙(6)






 ドラゴン使いの歌う中で、人々はゆっくりとエルフを振り返る。それは彼が望んでいることではなかった。ただ焦り、さらに必死になって、再び叫ぶ。

「何をしているんですか、早く逃げて下さい、大変なことになりますよ! ほら、立って! 早く、逃げろ、逃げるんだ!」






  ――その翼を広げ蹴る大地は
    渓谷を生み 森を創り――






 弾かれたように人々は立ち上がり、カレンも、トレアンから後ずさった。






  ――内に抱く心の炎は
    生命を与え 温もりを通わせ
    最期に闇へと還す――






 もつれる足で彼らは走った。一刻も早く、この歌う男から離れなければならなかった。ドラゴン達は騎乗していたパートナーとその家族達を地上に放置して空高く舞い上がり、ドラゴン使い達も我を忘れ走った。

 彼らはこの若者がレフィエールの長男であることを、今思い出す。






  ――我は今 その名を呼ぶ
    碧緑の森の守護者よ
    竜の里の民の始祖よ
    痛みと出会う者は
    ここにその力を継承し
    そなたに捧げん――






 トレアンは歌う。人間の言葉で、コボルティアーナの言葉で、ドラゴンの言葉でただ歌う。彼の瞳には何も映ってはいなかった。その腕に抱いている弟の体でさえも――

 レフィエールの術士の体から、ぶわっと光が放たれた。

 そして、声だけが歌の旋律を続けた。






  ――アヴィソルト
    我はそなたであり そなたは我
    秩序と光を与えたまえ――






 皆が目を覆い、その場にうずくまった。誰もその圧倒的な力の前に何を為すことも出来なかった。エルフも、杖と共に両腕で顔を覆った。






  ――アヴィソルト!――






 ヴァリアントとオーガスタが、同時にそれぞれのパートナーの名を吼えた。

 闇の中から生まれた炎は光を放ち、風のあおりを受けて大地に染み込んで行く水の上に映る。全ての力を孕んだその体は、その存在が圧倒的になるほどのものをして混沌を作り出し、そしてレフィエールの兄弟が、一方は生き一方は死んだ状態でその中にいた。

 ドラゴンと、人々の目には何かが見えた。光と闇の中で薄目を開ければ、それが見えた。

 それは多彩色の瞳でギロリと世界を睨み、次いで空に向かって、吼えた。






 ――テレノス! そなたらが弟を殺した!






 それはドラゴンだった。あのカイザーの二回り以上も大きな体は多彩色の光沢を持つ白の鱗で覆われていて、術を超越した全ての力を纏っていた。

 トレアンは消えていた。レフィエールの兄は、あの歌を無意識に紡いだ彼は、間違いなくそこにいた。巨大な体の下にテレノスの亡骸が横たわっていて、最早ドラゴン使いではなくなった者がそれを守るかのように破壊されたヒューロア・ラライナの地にいる。

「テレノス、テレノス!」

 ヴァリアントが降りてきて、吼えた。青灰色のドラゴンは多彩色の瞳のドラゴンを仰ぎ見て彼らだけの言葉で言う。

「トレアン、そうなのだろう、トレアン? あんたなのだろう?」

 そのドラゴンは美しく、また恐ろしかった。全ての色で満たされている瞳は先程までここにいた一人のドラゴン使いがそうだったように、悲しみと怒りに……そして深い絶望に満ちている。オーガスタもかつてのパートナーだった者の前に、しかし離れた場所に降りる。ウォーテルドラゴンがまた吼えた。周囲の人間達とコボルティアーナにはわからない。

「テレノスを……こっちに寄越してくれ。相棒は……もう生き返らない!」






 ――僕は世界で、世界は僕だ。






 と、体の中にその声が直接響き渡ったので二頭のドラゴンはよろめいた。体勢を立て直してふと横を見れば、エルフやドラゴン使い達やコボルティアーナ、人間達も頭を押さえたり胸に手をやったりしている。巨大な顎が再び開いた。






 ――テレノスは僕の、この僕の弟だ。






「トレアン、トレアン! 元に戻って下さい、私達もそれは十分に理解していますから!」

 セナイが杖を構えたまま叫んだ。今、エルフは普段の落ち着きを全て何処かに置いてきたらしく、その表情に全く余裕が見当たらない。

 それは、彼がジアロディス=クロウの時のことを思い出していたからだった。ラライの民の継承者の血を、やはりトレアンは受け継いでいた。アミリアの最初の子は、自分の子ではなかったのだ。ドラゴンは、古代竜は全ての言葉で人々の心に向かって意を発していた。

 だが、そんなことをとやかく言っている場合ではなかった。エルフは再び大声を出す。

「貴方自身、わかっているのですか? 今、自分がどのような姿になっているか!」






 ――僕は僕だ、エルフ風情が口出しをするな!






 凄まじい咆哮と共にドラゴンの顎が大きく開き、咄嗟に彼は盾の呪文を完成させて杖に乗せ、自らの前方に広げる。しかし、その巨体が放つとんでもない威力の燃え盛る風の刃に、盾は耐えることが出来なかった。術が激しくパァン、と割れる音がして、その衝撃でエルフは吹っ飛ばされ、石畳に叩きつけられた。






 ――テレノスは僕の弟だ! 決して誰のものでもないし、この世界のものであり僕の弟なんだ! そなたらに渡してたまるものか!






 吼えるだけの威嚇で、人々は震え上がって動けなくなった。ドラゴン達でさえ後ろに下がり、戦おうとする者は皆無だった。エルフが呻きながら起き上がり、再び杖を構える。

 しかしその時、一人の術士が前に出た。

「トレアン、ねえ、トレアン!」

 カレンが、どんどんドラゴンに近付いていく。セナイはその肩を掴んで引き戻そうとした。

「カレン、駄目だ! 貴女が殺されてしまう!」

「カレン、止まれ! 止まるんだ!」

 父の、ギルバートの叫び声もした。しかし彼女は肩に置かれたエルフの手を振り払って、鋭い牙が何十本も並ぶその顎に向かって手を伸ばしながら進み続ける。母親の絶叫が聞こえた。

 本当は、火術士は他の者達に向かって叫びたかった。私達は、まだ死んでしまったわけではない。しかし、目の前にはたった今大切な愛する家族を失った、自分が愛しいと感じて仕方がない人がいた。自分の危険な行動を嘆き悲しむ必要はないなどと背後を振り返って言うことは出来なかった。彼女は、涙が溢れてくるのを感じながら叫んだ。

「トレアン、聴いて! あなたは、まだそこにいるでしょう?」






 ――ここにいるが……どうした!






 ドラゴンの態度がわずかに揺れたのがわかった。彼女は、トレアン=レフィエールというドラゴン使いにとって必要な存在だった。そう、テレノスが動かなくなってしまうその直前までは。

「守るもの……あるわ、ちゃんとわかるの! トレアン、今のあなたも、さっきの戦っていた人達と同じ、憎しみの心で一杯になっているわ。でも、あなたはそれだけの存在じゃない! ずっとずっと、テレノスを信じてきたんでしょう? 私、ちゃんとあなたに信じて貰えてきたか自信はないけど、もしそうだったのなら……」

 カレンはしゃくり上げた。言葉が出なくなって、だけどそれだけを伝えたくて、その場で動けなくなって石畳の上に膝をつく。手を伸ばして、その美しいうろこに触れたかった。巨大な顎は目の前にあった。

 彼女は手を差し伸べた。しかし、それがドラゴンに届くことはなかった。

 太い鉤爪がテレノスの体を傷付けないように包み、その次の瞬間巨大な影は猛烈な突風を巻き起こして飛び立った。火術士は、彼の名を呼ぶ。しかしそれに答えが返ってくることはなく、再び吹いてきた南東からの風に乗って、レフィエールの兄はまるで何もかもを諦めてしまったかのように飛び去って行った。

 いくら呼んでも影は小さくなっていくばかりで、遂には見えなくなってしまった。彼女はただ、何もかもの為にそこで泣いた。いつまでも、泣き続けた。






「……悪い予感がしたんだ。あいつがそこにいたら、良くないことが、大変なことがもっともっと起こるだろう、って……だから、剣で……」

 その人間は、放心したままそう言った。エルフは、震える手をその肩に置く。

「……そうしたら、本当に良くないことが起こった。そうでしょう?」

 人間はこくりと頷いた。そして、咽び泣き始めた。

 震えた声が、向こうの方からまた聞こえる。それはローザのものだった。

「私……私、違う、こんなことがしたかったんじゃない。無礼者は許せなかったけど……こんなことが、したかったんじゃないのに」

 今、彼らの瞳に映っているのはヒューロア・ラライナの町だった。崩れた石造りの家の周りには水路の水が溜まり、光の門のある丘の上から見たそれはあまりにもひどく見えて、自分達の為したことがどれほどのものであったかを皆は知った。ドラゴン達が次々と下へ降りてきて頭を垂れる。

 ただ、エンベリク=ヒューロアの像だけはそこにしっかりと立っていた。優しく人々を見守っているかのように見えるその石の瞳はしかし、今はとても悲しそうに見えた。
その時、英雄の末裔たる男は声を上げるのだ。

「……直さなきゃ、な」

 ギルバートが、溜め息をついて立ち上がった。悲壮感を帯びてはいるが、彼の口は力強い再生への言葉を紡ぎ、放つ。

「元々俺達には誇れるものも何もなかった。だけど、ここが村だった時、その外から来た筈の皆に助けられてここまで立派になったんだから。この手で……皆で協力して、直すのが当然だろう、やるしかない、ぐだぐだ他のことを喋るのは、生活出来る場所が綺麗になってからだ!」

 かつて村を救った水使いの、その子孫は周りにいる皆を見渡した。

 この町の人々は彼を見た。この状況を見た後でも尚、前方を見据えて立ち上がったその人は皆の瞳の中に希望として刻み付けられる。時間はかかるだろう。しかし、彼らはまだ全てを失ってしまったわけではないことに気が付いた。

「俺もやろう、また造ればいい」

「そうだ、喋る前に生きるぞ」

「まずは崩れたものを全部どけるわよ」

「闇使いの僕は何をすればいいんだい、ピーター兄さん?」

「素直にその腕で運べ、セス」

「……あ、あの!」

 と、そこに別の者達の声が割り込んでくる。皆が振り向けば、黒髪に鳶色の瞳を持つ人々がそこには集まってこちらを見ていた。後悔の念が滲み出ているその表情に宿るものはただ一つだけで、そして大半の者がうつむいている。

 しんと静まり返った中で口火を切ったのは、クラウスだった。

「……出来れば、手伝わせて欲しい……んだ、けど」


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