氷の娘




 忌々しい、あのドラゴン使いの術士に背を向けて、俺は歩き出した。

 正直、本当にこの小娘――いや、もう名前を知っているのだからタチアナと言うことにする――があの時の俺の言葉に従ってついてくるとこれっぽっちも思っていなかった。自分ですら何のつもりで言ったのかもよくわかっていなかったのに、何故少女はこんな行動に出たのだろうか。

 ちらりとその表情を振り返ってみる。眉の辺りで切り揃えられた前髪がまだ幼さの残る顔つきを、より幼く見せていた。不安に沈むその青い瞳はずっと下を向いたまま、こちらを見ようともしない。

 無言で歩き続け、そのまま二人で町の一番西の端までやってきた。仲間の土使いのコルナットが昨日昨日作ってくれた家の土台の上に、俺達の村であるエンタークから持ってきたのだろうか、布を敷いているのが見えた。

「コルナット」

 俺が呼び掛けると、奴は顔を上げ、こっちを振り向いて笑顔を見せた。

「ああ、イスティルか、丁度良かった――」

 コルナットの笑顔が強張った。

 そりゃあ、互いに不安だろう。一方はエンタークの仲間を氷漬け……いや氷にしてしまい、もう一方はエンタークの仲間が氷になる瞬間を目の当たりにしたのだから。タチアナの方を振り向くと、今にも泣きそうな顔をして少女はそこに突っ立っていた。

 俺は何か動きが欲しくて、自分から口を開く。

「……もう忘れたってのか? 昨日言っただろ、連れてきて一緒に住むことにした、って」

 土使いは笑みを保とうとして引きつった表情になり、喉の奥から鳥が絞め殺される時のような声を出して返事をした。

「そういえば、そうだったよな――」

「それより、丁度良かったとか言ってたが、何か用があったのか」

 俺は辺りを見回しながら奴に向かって訊いた。

 家の土台の周囲には、いつの間にか低く石の壁が出来ている。壁といっても足を少し上げてまたげるくらいの大したことのないものだったが、それでも基礎を築いてくれたコルナットに対して俺は感謝した。領域を測って決めるのが一番面倒な仕事なのだ。

「これからの家のことだけど、イスティル、広さはこのくらいでいいのか?」

 土使いは何時の間にエンタークの俺の家に入ってそれを取ってきたのだろう、二つの貴重な木の椅子と重たい金属の鍋を地面の上に敷いた布のすぐ傍に置いていた。石でぐるりと囲まれたその広さは二人が住むのにぴったりで、俺は頷いてから改めて礼を言う。

「ああ、ぴったりだ。恩に着る」

「椅子と鍋はなくすと高くつくから先に持ってきておいたんだけど、これでよかったか?」

「あんたはよく気がつく奴だ」

 コルナットは俺が少し口許を緩めたのを見て少し驚いたような表情を出したが、それをすぐに引っ込めてこんなことをぼそっと呟いた。

「……久し振りにそんな顔、見た」

 自分だって、それに驚いていた。

 それから、日が暮れるまで石の壁を高くする作業をひたすらやった。タチアナも勿論加わっていた。俺は冷たくも優しくもなくこの少女に対して接し、自分が誰を自分の領域に連れてきたのかをなるべく理解しようとした。氷が心臓を狙っているような気がしていた。

 流石に、こんな無防備な場所で一晩明かすのは無理があるので、空の色が全て変わった頃に作業を中断して、土使いの転移の術でエンタークに戻った。勿論、タチアナも連れて、だ。ヒューロアのいた村もここも暑いことに変わりはなかったが、暗くてもやはり土地の様子が大分違っているのがわかる。

 コルナットがこちらを気遣わしげに見て、じゃあ、と言ってからぎこちなく微笑んだ。俺もそれに同じ返事をして、今はこれで、と付け足す。

「また、明日」

 土使いは自分の家に帰っていった。奴は独り暮らしだ。

 俺は改めてタチアナを見た。腰まで伸びる淡い色の真っ直ぐな髪が星に照らされ、じっと観察されていることに気付いたその瞳は昼間のそれよりも幾分か青さが増したように思えた。こんな幼いなりの少女が、友を、仲間を一瞬で消してしまったのだ。

 その気になれば俺だってこの場で殺すことが出来る筈なのに、目の前の水使いはそんな素振りを見せない。しかし、いつでも消せると思ってたかをくくっているわけではないだろう。全身を使って、少女は今この瞬間も俺に怯えていた。見ればわかる。

「俺の家はあっちだ」

 観察するのをやめて、右手の方を指差してやった。そっちには一人がやっと住める家、すなわち自分の生きる場所が小さくてもしっかりとした石で佇んでいるのだ。

 二つの椅子と鍋をコルナットが持ち出してしまったので、俺達には座る場所がベッドの上ぐらいしかなかった。家に入った瞬間、自分の腹が突然鳴る。

「ベッドの上にでも座ってろ」

 その言葉にこくりとタチアナが頷くのを見てから、箱に大事に取っておいた最後の果物を二つ取り出す。ここにもう食料はなかった。この果物も、西から来る短命エルフの行商人から何とか買い付けたものだ。暗い中で、何とかロウソクに火をつける。

 少女の目の前に果物を持って立てば、俺の影に恐怖を感じたのだろうか、その小さな体がびくりと震えて怯えた瞳が見上げてきた。捕らわれた野ネズミのような奴だ。

 何もそこまで怖がることなどないのに。正直、この少女が何時強気になって俺を氷に変えてしまうか、そっちの方が恐怖だった。

「……俺は殴ったりしない、そんなことより食え」

 果物を一つ差し出せば、小さな手が震えながら伸びてきてそれに触れる。そのまま手に果物を押し付けて、俺はもう一つをかじりながらタチアナの隣に腰を下ろした。

 果物は珍しく美味だった。汁が指を伝うほど瑞々しく、そして甘い。俺は思わず呟く。

「……当たりだな」

「……えっ?」

 少女が反応してきたのでそっちを見ると、果物は何の傷もなくまだその小さな両手にすっぽりとおさまっていた。

「最後に残しておいたやつだ。あんたのそれも、俺のと同じ色つや、大きさ。味わえよ」

 俺の言葉に、タチアナは最後、と復唱する。一向に食べようとしない。だがしばらくしてこちらが芯に到達しようかという時に、突然少女は小さな声で言った。

「……最後の大切なものなのに、あたしが貰うのは違うと思う」

 腹の何処かがざわついたような気がした。

「馬鹿か、あんたは」

 俺は果物をかじるのをやめて、少女をしっかりと見据える。まだ怯えているその瞳に焦点を合わせて言ってやった。

「最後だからあんたにやるんだ。俺が独り占めしてもよかったかもしれん、だけど……こんなにいい物を二度と食えない奴の分まで、あんたが食うんだ。それに、こういう時に男は女に何か贈るのが普通だけどな、ここにはろくな物がないんだ」

 タチアナは何かに取り付かれたかのように果物を見る。ややあって、何かに踏ん切りをつけるかのように一口かじった。

「……レファントで食べたのと同じくらい美味しい」

「……そうか」

 ドラゴン使いの住むあの森か。あそこに行けば、今よりも遥かに良い暮らしが出来るのだろう。それこそ、今や食べつくして芯だけになってしまったこの果物と同じくらい美味いものが沢山あるのだろう。だが、ヒューロアのいた村までしか辿り着くことが出来なかった。俺達は失敗したのだ。

「……あっち側の奴は幸せだ」

 果物の芯を窓から投げ捨てて、俺はなんとなく言った。すると、少女がぼそりとこんなことを呟く。

「……でも、住んでるのは同じ人」

 俺は反論した。

「見た目が全然違うじゃないか」

「……うん」

「それに、ドラゴンと喋るんだろ」

「……うん、家に上がる時は靴を脱がなきゃいけないの」

「何処が同じなんだ」

 タチアナは困ったような、悲しいような顔をしている。俺は次の言葉を待った。その小さな手の上にあるのは果物の芯だった。綺麗に食べ尽くされている。

「……形」

「……えっ」

 それはその通りだが、その答えに俺は呆れてまじまじと少女を見つめた。すると、青い瞳が初めてまともに視線を合わせてくる。相変わらず怯えが宿っていたが、それは真っ直ぐな光を抱いていた。

「だから、見て、聞いて、考えて、ってあたし達もドラゴン使いの人達も出来るの」

 先に目をそらしたのはタチアナの方だった。俺は軽く溜め息をついて、芯は窓の外にでも投げておけと言いながら近くにあった薄い毛布を手に取る。

「寝るぞ」

 少女はこの小さな家の中を見回した。ロウソクの火を吹き消した俺に、どうすればいいのかわからないと目で訴えてくる。

「……狭くたって、ベッドがないよりましだろ」

 もう一度ベッドに腰掛けて靴を脱ぎ捨てながら俺は言った。

 壁際に転がって、冷たい石に触れる。ほどなくしてタチアナも仰向けになった。俺はいつも背中を冷たい壁に預けて眠るのが好きだったので、この時も自然とそうなって、少女の顔を見る体勢になった。本人は落ち着かないのだろうか、こちらをちらりと見たり足元に目をやったりしている。

 細い腕が動いて俺の左手に当たれば、すぐさまうろたえた声が謝罪した。

「ご、ごめんなさい」

 俺はいや、と言った。こんなのを見ていると、この少女に対して抱いていた負の感情がすうっと消えていく。あまりの幼さにどう考えたらいいのかわからない。

「狭いから仕方ないだろ、気にするな……横になったらまだましだ」

 暗闇の中で目だけが光っていた。窓から入ってくる星の光のせいだろう。しばらく直視していたが、何かにやられるような気がして俺はタチアナの首元を見ていることにした。絞め殺そうなどとは思わない。そんなことをしても無駄なだけだということはわかっていた。

 しばらくずっとそうしていたが、全く眠れなかった。眠気もなかった。

「……眠れないか」

 それは目の前の少女も同じだったらしい。俺が言うと、目を泳がせた。何となくその頬に手を伸ばすと、タチアナは全身をびくりと震わせて固く目を閉じる。

 何かが、体の奥にぐさっと刺さったような気がした。青い瞳に、俺は今悪者として映っているのだろうか。悪者でしかないのだろうか。怖がらなくても、今から命を取ろうとしているわけでもないのに、どうして。

 氷の術など使えもしないのに、どうして。

「何で、そんなに怖がるんだ」

「ご、ごめんなさい」

 また、同じ返事だ。

「……怖いのは俺の方だ、何時氷漬けにされるかわからないんだからな」

 俺はその手触りの良い頬を右手ですっぽりと包み込んでやった。暗闇の中の青い瞳が真っ直ぐ見つめてきて、それは重大なことにたった今気がついたと言っているようだった。

「俺の復讐は終わった」

 そうであって欲しかったから、俺は言った。全部ぶつけてこいと言ったにも関らずこんなに怯えている少女、それを見たところで、何が出来るだろう。

 すっと顔を近付けると、またタチアナは固く目を閉じて縮こまった。全身で拒否されているようで悔しくて、目が再び開く前に唇を奪ってやる。小さな体はまたびくりと震えて、それから俺の首筋に左手で触れてきた。まるで、早くやめてくれと言わんばかりに。

 だから、やめてやろうとはますます思えなくなった。楽にしろ、とだけ耳元で囁いて、後は勢いに任せてそのまま抱いた。彼女は――もう女なのだ――痛みと恐怖からだろうか、泣いていた。声を上げずに泣くその体をぎゅっと抱きしめてやってもその涙は止まらなかった。

 泣きたいのはこっちだった。何がしたいのかわからなくて、タチアナの長い髪に触りながら体温を感じているうちに、いつの間にか意識が途切れた。






 日の出と同時に目が覚めた。

 俺の腕の中でタチアナはまだ眠っていた。自分は親しかった友や仲間を殺めた水使いの女と、寝た。復讐をするとコルナットの前で言ったのを今更思い出して、罪悪感に襲われて、起き上がった。それでも彼女は目を覚まさない。

 その頬には涙の跡がはっきりと残っていた。もし彼女が目覚めた時にこのままでは分が悪いだろうと思い、足元にぐしゃぐしゃのまま放置していた薄い毛布をその小さな体の上に掛けてやる。昨晩取ったのはいいが、毛布を使うのはすっかり忘れていた。涼しい風が窓から入ってこなかったからかもしれない。俺はベッドを離れ、服を着た。

 普段から俺は剣を使っていたが、弓と矢もこの家にはあった。少し古いが手入れが施された良いもので、それはこのような荒れた土地で狩りをするのに役に立った。矢を回収してまた磨いて使っているくらい、無駄には出来ない代物ではあるが。

 荒れていても、丈の低い草の間に小さなウサギを見たり、所々にある小さな低木の茂みに鳥を見たりと、この土地には生き物がまだ住みついていた。今日は運よく、大きめの鳥を二羽もしとめることが出来た。一羽を片手で抱えるくらいだから、ここでは大物と言ってもいいだろう。川の水さえ枯れなければ、何とか生きていける場所だったのだ。

 家に戻っても、タチアナはまだ眠っていた。俺は地面に古い布を敷いて鳥の羽をむしり、適当にさばいてから火種を作る。そしてその場を片付けてから窓とドアを開け放った。こうしておかないと家中が煙に巻かれて大変なことになるのだ。

 それから火種と肉を持って俺は立ち上がり、石で出来た台のくぼんだ所に枝の焚き木と火種を突っ込んで、肉に鉄の串を刺してから素で焼き始めた。幸い、今朝は風が窓のある方角から吹いている。台は窓とドアを結ぶ風の道の中間にあるので、煙は上手く出て行ってくれていた。

 ベッドの方でごそごそと音がしたので、俺は振り返った。タチアナはぼんやりと目をこすりながら起き上がっていて、そして自分が今どんな格好でいるのかに気が付いて、さらに俺の視線にも気が付いて、一瞬で毛布を首元まで手繰り寄せた。

「飯だ、早く服を着ろ」

 彼女は答えない。俺はさらに畳み掛けた。

「いらないのか、今朝はせっかくの肉だってのに。火の勢いが増すぐらいの脂がのっているのは、ここらでは珍しいんだ」

 真っ赤な顔を隠すようにタチアナは頷いた。再びごそごそと動く音が始まって、多分服を着ているのだろう、だから彼女を振り返らずに声を出す。

「俺の手を握ったぐらいの大きさなんだけどな、どれぐらい食いたい?」

「……二つ」

 炎の上に、五つの肉の塊が並ぶことになった。

 貧しくても、ここには塩ぐらいあった。逆に言えば、味を付けるものがそれしかなかったということになる。しかし、ないよりはありがたい。肉に塩を振りかけた。

「茶も何もないが、我慢してくれ」

 その時、俺はタチアナが水使いだということを忘れていた。だから、自分の持ち物である少し欠けたカップの音がした時には何だろう、と思ったのだ。火を消して最初の二本の串を持ってきた時、ベッドの前に幾つかの石が積まれていて、その上の二つのカップの中に氷の浮いた水が入っていたのには驚いた。彼女は窓の外を見ていた。

 こういうこともありなのかと思うと、いささか複雑な気分になる。俺は一本を手渡した。

「ほら、食え」

「……ありがとう」

 お水もよかったら、とタチアナは小さな声で言った。

 目の前に積まれている石は、この小さな石の家を建てた時に余って、何かに使えるかもしれないと中に入れておいたものだった。だから平らで扱い易いと踏んだのだろう、そんな彼女が石の上に置いたカップを、俺は取って水を一口飲んだ。

 冷たくて気持ちが良かった。憎んでいた氷の術に感謝している自分が、確かにそこには存在していた。

 昨日の夜に果物を一つずつ食べただけで空腹だったので、俺はあっという間に三本を平らげた。タチアナもどうやら同じだったらしく、俺が三本目を半分ぐらいかじっていた時には既に指を舐めていて、骨を持て余しているようだった。

「……水、助かった」

 俺は骨をかき集めて窓の外に投げ捨てながら言った。羽をむしる時にも使った古い布で手を拭こうとした時、突然目の前に両手が突き出される。その中には溢れるくらいの透明な水がゆらゆらと揺れていた。

 紛れもなくそれは術だった。これは、手を洗えと催促しているのだろうか?しかし、手を入れたら自分も氷漬けにされてしまうかもしれないという考えが頭の隅をよぎったので、俺は何をすることもなくそこに固まっていた。

「……よかったら」

 タチアナがそう言っても俺は動かなかった。よほど戸惑った表情を見せていたのだろう、彼女はまた何か言いたそうに口を動かしかけたが、面倒になったのだろう、こちらの返事を待たずに両手一杯の水を俺の両手にぶちまけた。

「うわっ」

 思わず布を取り落として俺は声を上げる。いきなり掛けられた水が冷たかったからというのもあったし、氷漬けになることへの恐怖もあった。だが、次に彼女の顔を見た時に色々なものが俺の中から吹っ飛んだ。

 目の前にある、あからさまに傷ついたと言っているような表情は、少しでも役に立ちたいと彼女が思っているということを俺に伝えていた。

 本当に自分が悪人みたいに思えてきた。水は冷たかったが、手に心地良かったのは事実だ。家の中ではあったが、まだ手も汚れたままだったので、俺はつっかえながらも何とか言葉を紡ぎ出す。

「その……ただ冷たくて驚いただけだから……もう少し」

 やってくれるかと訊けば、タチアナはこくりと頷いて俺の手の上に水を注ぎ始めた。

 脂でべたべたになった手を水が注いでくる中でこすって綺麗にした。それだけなのに久し振りにすっきりした気持ちになってくる。そこで、小さな両手がどのようにして水を生み出しているのかとてつもなく気になった。あのドラゴン使いの術士もそうだが、どのような仕組みの上にそれは成り立っているのだろう。

 無意識に、俺の右手は彼女の左手を取っていた。息を飲むのを無視して手の平や指を観察する。それに疑問を覚えたのだろうか、水使いは小さな声で何、とだけ訊いてくる。


「……何処から出しているんだ、水は……手の平か、指か」

 俺は相手の目を見ずに言った。

「……意識したことも、なかった」

 返事をした小さな声は戸惑っていた。

 術士のことはどうもよくわからない。タチアナの左手を引っくり返したりしながら俺は思っていた。あのコルナットは土使いだが、奴が昔喧嘩する時に使っていた岩を飛ばす術は、どうやって使っていたのだろう。飛ばす岩は、何処から生み出していたのだろう。

 使っている本人がわかっていないのだから自分にもわかるわけがないか、と思い直して、俺はそうか、と呟いて左手を解放してやった。もう一度礼を言うのも何だか面白みに欠けると思ったので、何となく彼女に一歩近づき、左の頬に軽く口付けてやった。

 視線を合わせると、タチアナは真っ赤になった。そういう所は本当に少女だった。思わず少しだけ笑ってから、俺は彼女に向かって言う。

「家を建てに行くぞ」

 まず、コルナットを誘いに行った。奴はずっと寝ていたらしく、ぼさぼさの頭と半分閉じた目のままで出迎えてくれた。俺がタチアナに向かってこいつの頭に水を掛けてやれと言えば、土使いは寝惚けた目で彼女の姿を確認した途端、うわあっと声を上げて派手に引っくり返る。

「コルナット、馬鹿か。寝惚けてないで早く起きろ」

 俺は苦笑しながら友に言った。

 今日は昨日よりも暑かった。コルナットの転移の術で再びエンタークからヒューロアの村へと行く。そこでは既に人々がせわしなく動き回っていて、幾つかの新しい家が完成していた。

 全て石を積んで造り上げた家は、ある程度の高さからゆるやかな円錐形を描いて空に向かっている。中を覗いてみると、地面も石で覆われていて、かかとを打ちつけると良い音が響いた。その新しい家を出て前からあった家の方を見れば、どうやらあっちはあっちで屋根をなくし、家の上にまた家を建てようとしているらしい。通りすがりの人が、アンデリーの家も面白いことをするよなあ、と苦笑いしながら歩いていった。俺達の家はあんな風にする必要もないだろう。


 再び三人で作業を始めた。コルナットが色々な人から石を積み上げる良い方法をどんどん教わってくるので大助かりだった。周りではエンタークの人間もヒューロアの人間も関係なく、互いに皆協力し合って村を町にするべく奮闘している。確かに、あの時エルフが争うよりこっちの方が幸せだと主張した理由がわかったような気がした。

「皆、楽しそうだな」

 俺が呟けば、傍にいたコルナットも頷いて言った。

「……エンタークのことなんて忘れていくんだろうか」

 土使いがじっとこちらを見つめてくるので、どうした、と俺は訊く。

「イスティル、復讐する、って言ったよな」

 俺は何も言えなかった。復讐というその言葉は頭から忘れ去られかけていて、思い出したとしても他にどうしようもない無駄なものに成り下がっている。だが、コルナットは何か考えているようだった。奴は生まれ育ったエンタークが好きだった。それは俺だって同じだ。

「忘れてただろ、違うか?」

 ちらりと奴を見たつもりだったが、真剣な眼差しと出会ってしまった。何かを咎められているようで居心地が悪くなり、一気に汗が吹き出てくる。

 土使いはタチアナを振り返った。ただ、それは彼女を気にしているというより気にかけているようだったかもしれない。

「……それでいい、と思うんだよな。エンタークのことを覚えてさえいれば」

「俺の復讐は終わった」

 俺は昨日彼女に言ったのと同じことを友にも言った。

「終わった、って、やったのか、何か」

「いや、始まった瞬間に終わってたのかもな」

「じゃあイスティル、何の為にあの子を連れてきたんだ」

 何の為だったのだろう。自分の友と仲間を一瞬にして奪った氷の娘。監視するのかと問われれば、違うと答えるだろう。痛めつける気かと責められれば、そんな心はなくなったと断定出来る。最初は痛めつけるつもりだったかもしれない、しかし、自分の方が俺よりも強い力を持っているのに怯えている、そんな彼女を、痛めつける気にはならなかった。

「……わからん」

 ただ、タチアナは温かかった。泣いていた。顔を赤くしたりもする。

 俺と全く違うようで、同じような形をしている。

 コルナットが眉間にしわを寄せて何かを言いかけたが、その前に俺は喋った。

「だけどタチアナは氷じゃない」






 タチアナは氷ではない。

 ならば、レファントの森にいる、ドラゴン使いの術士だって一緒だ。

 俺達はまず、水を失った。水使いもエンタークからいなくなって、次第に生活を失っていった。コルナットのおかげで食い繋いでいたけれど、支えあってきた友を、仲間を沢山失った。そして今、エンタークそのものも失おうとしている。

 だが、失うことへの怒りは行き場を失った。体の何処かにぽっかりと穴が開いて、そこから風が吹き抜けていっているような気がしている。家が完成に向かうにつれて、穴は大きくなっていくようだった。通りすがりの暇な人が何人も手伝ってくれたおかげで、難しい窓の部分と屋根の始まりの部分を仕上げるところまで出来た。

 明日はドアの上の部分からだと言い合って、俺達三人と手伝ってくれた人達は別れた。あの人達も全く違うようで同じような形をしていた。

「あの中の二人は術士なの」

 タチアナが、しばらくしてそんなことを言った。

 コルナットの術で俺達はまたエンタークに戻ってきた。この村にも英雄がいたことを知っている者は、一体どれくらい残っているだろうか。その人がアミリアと行動を共にしていた弓使いだと知っている者は、もう残っていないのではないか。この村は、いずれ忘れ去られてしまう運命にあるのかもしれない。弓使い、ラクス=ゼウムのことも。

 俺達二人は土使いと別れて、また歩き始める。

 エンタークという名前もだったけれど、何よりもこの土地が好きだった。俺は立ち止まって、だんだんと色を変えていく空を見上げる。すう、と涼しい風が首を撫でた。

 タチアナが、俺が歩くのをやめたことに気付いて近くに寄ってきた。大地に視線を落としてみると、丈の低い草がまばらに生え、乾いた土がその下に敷かれている。所々に見える茂みは小さく、遠くに目を凝らしてみても影は見えない。山も見えないくらいなのだ。

 だけど、ここが好きだということに変わりはなかった。

 きっと数日もしないうちにここを去るだろう。寂しくないと言ったら嘘になる。俺は目の前に広がる大地の向こうの地平線をじっと見つめていた。

 右腕に触れてくる温もりは、水使いのものだ。

「……ここを、忘れるわけにはいかないからな」

 俺は無意識にそう言った。すると、掴まれていた右手首にぎゅっと力が入る。

「ごめんなさい」

 タチアナを振り返ると、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。既に目には涙が溜まっていて、零れ落ちそうだ。

「何で、あんたが謝るんだ」

 俺はまだ、目の前の顔が笑ったところを見たことがない。

「だって、あたし、信じて欲しかったからって違う人に悲しい想いをさせたから」

「悲しくても終わったことだ」

「でも、人から大切な場所まで奪おうとしてる、あたし」

「馬鹿言うな、これはあのエルフの提案のせいだ」

 それに、と俺は付け足すように言った。

「残った奴らは、皆生きていたいんだ。人として当たり前だろう、移動して生活が少しでも楽になるなら何処へだって行く。俺だってそうだ」

 転移の術がずっと繋がり続けることは出来ない。術でさえ、生きる為には面倒なものかもしれない。貰いに行くぐらいなら、いっそのことあっち側で暮らすだろう。

「手に入れた安心を守りたかったら、何でもする。そうだろう」

 タチアナは泣かなかった。代わりに、こくりと頷いて口を開く。

「ドラゴン使いの人達だって、トレアンさん達だって、同じこと言ってる」

 その言葉に、俺は束の間息を止めた。

 だとしたら、ヒューロアの村の人達だって、自分達の村を守る為に必死だったのだ。それに気付いた時、青い瞳にまた出会った。ドラゴン使い達は安全を持っているかもしれない。俺達がそれを奪おうとしたから、彼らはただそれを守ろうとしたに過ぎないのだ。

 右手首だけに感じていた温もりは、今や両手に宿っていた。二人で長いことそうしていたが、俺が再び空を見上げるとタチアナの両手は離れ、代わりに小さな影が一歩近付いてくる。帰ろう、と呟けば、また彼女は頷いて、それから小走りで後をついてきた。






「ちょっとだけわかったような気がする、あんたのことが」

 今朝捕った鳥の残りを全部食べて、二人でベッドの上に転がっている時に俺は何となく言ってみた。すると、彼女もうん、と相槌を打つのだ。

「あたしも」

 暗闇の中で見つめ合った。これなら大丈夫、やっていけるかもしれないと思いながら青い瞳の奥を観察する。タチアナはどう思っているのだろう、俺みたいな人間で大丈夫だと感じているのだろうか。気付けば、こんなことを口走っていた。

「……戻りたい、とは思わないのか」

 彼女の顔つきが途端に険しくなったような気がした。

「あたしは自分でここを選んだの。二度とそんなこと、言わないで」

「ここにいるつもりか、その……」

 俺の隣に、なんてことは言えなかった。だけど、タチアナはちゃんと答えてくれる。

「この場所は離れなきゃいけないかもしれない、でも、あたしはどんな場所に行っても、ここにいたら大丈夫だと思ったの」

 まさに欲しかった答えを貰って、体の何処かにあいていた風穴が一杯に満たされていくような、そんな気がした。散らばる長い髪を撫でれば、彼女は何だか恥ずかしそうに目を伏せる。もう怯えてはいない。心の中を色々読まれていたのではないかと俺は気付いたが、それはきっと相手の優しさのせいだろう。

 顔を寄せて、唇に口付けた。首筋ではなく、今度は頬にその手の平が触れてくる。たった一日なのに、長いこと何かを覗いていたような気がしていた。短かったようで、深かった。

 いなくなった友を、仲間を、裏切ってはいない。ちゃんと俺はここで生きていて、何かを超えて、そして今は誰かの温もりに触れることが出来ているのだから。青い瞳はまた俺を見つめ、そして彼女は言う。

「目……綺麗だよね、イスティル。空と森の色、してる」

 腹の底から何かが溢れ出てくるような感覚を覚えていた。こんなに泣きたいと思ったことはなかったかもしれない。俺の表情が変わったと気付いたのだろう、水使いは少し微笑んだ。

「……タチアナ」

 溢れ出した感情を抑えることは出来なかった。力一杯その体をぎゅっと抱き締めて、もう一度その名前を呼ぶ。三回目のタチアナ、を震えた声で言えば、今度は耳元で名前を呼ばれた。

 やっぱり俺は泣いているらしい。初めて抱き合って、そして小さな手は火照った頬を優しく拭う。何かを言っているのが聞こえたが、何を言ったのかはわからなかった。少女ではない。彼女は、水のように受け止めてくれる。

 そして、氷のように冷ましてくれる。違うようで、同じ人なのだ。

 体は温かい。触れ合える悦びと何か大きな存在に出会えた幸福を、今、俺は噛み締めている。

 何かが心と体の中から流されていった。だけど、何もかも流されたわけではない。

 俺は失いかけていた潤いを再び手に入れたのだ。





























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