なみだ




祖父の遺品の整理に戻って二日目の昼。

残された服は僕が着ても違和感がなさそうだったので、遠慮なく貰うことにした。多少古いがくたびれていない良質の生地が肌によく馴染むので気に入った。

僕は茶を飲み、パンをかじりながら家の中で休憩していた。目の前には、アイリアの花をかたどった小さなエルカ材の彫りかけの細工がある。まだ滑らかにされていない五枚の花弁が、ごつごつした祖父の手を思い出させた。

作りかけのそれを完成させようとは思わなかった。ただ、それだけが祖父の生きていた本当の証だと思えたから。

あたたかい茶は喉に心地よく染みる。そろそろ街に戻った時の仕事を考えないといけないなあ、なんて思っていると、表からドアを叩く木の音がした。

普段誰も来ないこの家に、しかも僕に誰が何の用だろう。母か父かもしれないと思ったが、二人は家事や仕事でいつも忙しい。祖父の知り合いか、はたまたまさかのクロデキルドか? そんなことを考えながら、肩のあたりまで伸びたエルカ材の色のような髪を後ろで括り、僕は玄関へ向かう。

「どなたでしょうか――」

そう言いながら開けたドアの向こうにいる人を見て、僕は言葉を失った。

「……よう、久し振り」

僕の幼馴染みだった。同じ時期に同じ建設現場で働き始めた彼は、その頃から何故か、いつも見下したような目でこちらを睨み、出来る限り僕を避け、顔を合わせれば鼻で笑うか嫌味を言うかのどちらかを必ずするようになったのだ……しかし、今目の前に確認出来るその表情は以前と全く逆で、寧ろ少し怯えているかのようだ。頭の中で幾度となく消そうとした名前は、確か何といったっけ――

「……デリク、俺だ。シギベルトだ」

そうだ、シギベルト――彼は何か後ろめたそうに、うつむきながら視線だけを僕に向けてもごもごと言った。

思わず左足が半歩後ろに動いた。幼い頃の楽しかった記憶とせっかく二年もの間忘れていた忌々しい記憶が同時に蘇ってきて、そのせいだろうか、自分でも驚くぐらいに冷たい声が喉の奥から出る。

「……何しに来たんだ」

シギベルトは少し傷ついたような表情になった……前に散々人を傷めつけておいた癖に、どうしてそんな顔が出来るのだろう。

「……その、クロデキルドから聞いたんだけどさ」

僕の表情をちらりと見て肩をびくりと震わせ、彼はすぐさま目をそらす。

「何を?」

「お前……装飾品とか作れるわけ?」

……一体何のつもりなのだろうか。けなしに来たにしてはおどおどし過ぎているし、何を謝るわけでもなさそうだし、頼み事か?

「……確かに作ったものは成り行きであげたけど、それがどうかしたの?」

僕はそう言った。すると今までうつむいていたシギベルトが何か決断したように顔を上げ、結構な早口で喋りはじめる。

「俺……その、何かちょっとした贈り物をしたい相手がいるんだよな。でも宝石商で何か買えるような身分でもないし、かといってその辺の安っぽいものじゃ失礼だし……悩んでる時にさ、つい昨日かな、クロデキルドに会ったんだ。あいつ、何か木彫りの首飾り下げて嬉しそうにしてたから訊いてみたんだ、今町でメロヴィクさんの木彫り細工が色々な人の手に突然渡ってるからお前もそれを貰ったのか、って。したら、これはデリクが作ったとか言い出すから……何か、本当にクロデキルド、嬉しそうだったから……そういうのってかなり喜ばれるんじゃないのか、と思って」

彼の思い人の為に一つ作ってくれということだろうか。しかし、何とも理解しがたい頼み事だった。クロデキルドが喜んでいると聞いて嬉しいと感じているのだけれど、これは都合よく利用されているだけなのではないか、と僕の冷静で冷酷な部分が告げている。

シギベルトの話が終わっても、口が動かなかった。

「……なあ、一つ作ってくれないか?」

僕の中に十六歳から十八歳までの記憶が再び蘇ってくる。謝りもしない人間が頼み事をしてくる……自分の都合の為に。そう考えた瞬間、腹の底から強烈な嫌悪感がどろどろと上がってきて、僕は体を半分引き、吐き捨てた。

「……僕がそんなお人好しに見えたのか? 平和だね、君は」

彼が雷に打たれたような顔をした。

「……何だよ」

うつむいた顔が悲しみと悔しさで歪んでいるのが見え、いい気味だと思うと同時にもしかして言いすぎたかもしれない、などと咄嗟に考える。だが僕が何かを言う暇もなくこちらを向いたシギベルトが、何処か切なげに、恨みがましく声を荒げた。

「せっかく人が頼み事のついでに仲直りしようと思って来てやったのに……何なんだよ、お前。前はそんな奴じゃなかったのに」

その言葉に、今度は僕が顔を歪ませる番だった。

「……ついで? 来てやった? 前はそんな奴じゃなかった?」

仲直り、という言葉にどきりとしたのは確かだった。けれど、僕の中の何かが頑なにそれを撥ねつける。そんな奴はごめんだった。

「忘れたわけじゃないんだ、あの二年間。君がどれだけ無礼だったか、どれだけ僕に辛く当たってきたか。ただ木が好きだったから静かにじっと耐えてきたんだ……君こそ、一体何なんだ? 自分の為に頼み事しようとして、仲直りがついで? 笑わせないでくれ、そんなもの願い下げだ!」

握った手が痛かった。自分より幾分か背の低いシギベルトの褐色の頭を睨みつけ、僕は顔も見ずに叫ぶ。

「帰ってくれ、二度とここへ来るな!」

そのまま勢いよくドアを閉めた。

大きな音を立てたそれにもたれかかり溜め息をつく。外にいる人間のことなんてもうどうでもよかった。どうしてだろう、僕は悪くなかった筈なのに。でも、あの依頼を受けなかったのは正しいと思っていた。

だけど、正しいのか、悪いのかと考えているうちに悔しくなってきた。ドアに背中を預けたまま僕は唇を噛みしめる。どうして、こんなに上手くいかないんだろう。自分の不甲斐なさに視界がにじみ、やがて生温かい雫が頬を伝って流れ落ちて行った。

嫌なのは自分自身だった。だから、そこで声を殺して僕は泣き続けた。当たり前のように慰めてくれる祖父は、家の奥から出てこなかった。






町に戻ることが出来なくなった。

それどころか、外に出るのも嫌になってしまった。シギベルトの一件があってから僕は三日間祖父の香りの残るこの家に引きこもり続け、悩み苦しむ代わりに幾つもの小さな木彫り細工を仕上げていた。

悩み苦しむことからも逃げているんじゃないのか、と僕の中で誰かが言った。だけど、例えそうしていたとしても前に進むことが出来るのか、と問えば、偉そうなことを言っていた“誰か”は消えて偉そうな反論をした“僕”が残った。結局一人だ。

とにかく、みじめな自分を置いて何処かに行きたかった。机の上には花やドラゴン、木の葉や人の横顔、小動物や鳥の羽根など様々な木彫り細工の首飾りが並んでいる。それを見守るかのように、彫りかけのアイリアの花が一番隅っこにあった。

胃がきりきりと痛んだ時、僕は自分が飲まず食わずでずっと作業をしていたことに気が付いた。流石にそろそろ何か食べないとまずいことになるので、一旦彫刻刀を置いて家の中の食糧倉庫へ行こうとした時だった。

玄関の方でドアを叩く音がして、足が動かなくなった。

今度は誰が、何の目的で来たのだろう。もしシギベルトだったらどうしよう。自身の呼吸の音だけが嫌にはっきりと響いて、しばらく硬直したままで僕は何かを待った。

すると、もう一度ドアを叩く音がする。その後に若い女の声がデリク、と僕の名前を呼んだ。

「……クロデキルド?」

そう呟いたけれど、まるで釘を打たれた天井の木の梁のように足が動いてくれない。しかし、あの声の主に心配はかけたくなかった。野菜を地面からひっこ抜くようにして足を持ち上げ、色々な所にぶつかりながらもドアの方へと向かう。僕を呼ぶ声にもう少し待って、と心の中で答えながらドアの取っ手をやっとの思いで掴み、体の勢いに任せて一気に押し開けた。

途端、太陽の光が視界を覆い隠し、思わず僕はよろめいてドアの上の枠で額を強かに打ち、その場にうずくまった。

「うう、眩しい……痛い」

「ちょっと、大丈夫なの、デリク?」

慌てた声がして、小さな手が背中と肩に触れてきた。額をさすりながら顔を上げれば、心配そうなクロデキルドの表情がそこにある。

「全然会えなかったからまだ町に戻ってきてないのかな、と思ってこっちに来てみたら、何で……いつの間にふらふらになってるのよ」

ちゃんと食べてるの、などと母親のように訊いてくる彼女に大丈夫だからと返事をして、僕は立ちあがった。

「今から食べようと思ってたところだよ」






茶で喉を慣らし、水分の多い果物をかじる。

クロデキルドは一ヶ月後にある、年に一度の高原市場の話を僕に持ってきていた。あの小さな町全体が市場になって、日用雑貨や服飾、家具や術士専用の杖、ありとあらゆる種類の書物が出回るようだ。もちろん絵の具やノミ、彫刻刀も出るらしい。

「そこにね、あなたが彫ったのを出せばいいと思うの、あたし」

彼女は麦穂の首飾りを手でいじりながら明るい声で言った。それから仕事机の上をちらりと見て空色の目を丸くさせる。

「もうこんなにあるじゃない」

僕にはその話も彼女の目も眩しく思えた。

「その為に作ったんじゃないさ……君は僕のことを買いかぶりすぎだよ」

「どうして? 町の皆はこの首飾り、素敵だって言ってくれたわ」

「素敵、と欲しい、は違うよ」

クロデキルドが眉をひそめ、小首を傾げてこちらを見つめてくる。

「……何かあったのね?」

「何もないよ」

「嘘、何か隠してる」

溜め息をついて、僕は机の上を顎でしゃくった。

「……ちょっと衝動的になっただけさ」

「だからってそんなに投げやりになる?」

座ったままの僕と立ったままの彼女。僕のほうが親指一つ分低い位置にいるのは何だか滑稽だった。

「大丈夫よ、メロヴィクさんの孫だってことも強調しながら出ていけばいいと思うわ。あたしは、メロヴィクさんだけじゃなくてデリクもいいものを作る、ってことを皆に知って貰いたいの」

「……じいちゃんの名前を借りるなんてそんな失礼で大それたこと、出来るわけないよ」

「じゃあ借りなくてもいいじゃない、何ならあたしだって一緒に出るわよ」

僕はそこで初めて、クロデキルドのきらきら輝く瞳を見た。

「でも僕は町に行きたくないんだ」

一瞬、その表情が固くなった。だが彼女はすぐ後に、包み込むような柔らかい笑顔を見せる。小さな左手が僕の右肩に置かれた。

「あの四日間と同じよ、あたしがいる。嫌なことなんて起こりやしないわ、あの時もそうだったじゃない。大丈夫、あなたなら出来るわよ、デリク。というか、他の人と喋り回ってるあたしの横で淡々と人の相手してたじゃないの」








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