こんなもの、と、一抱えもある壺を割ろうとする。彩色の一切施されていない草木文様は赤茶色ですすけていて、私の腕を捕まえて止めるのは心優しい隣の家のクルクスだ。落ち着いて、と低い声に、泣きじゃくる私をぎゅっと抱きしめるしっかりした腕、ああそういえばクルクスもちゃんと、男の人、だったんだ、ということに気が付いたあの日、僕は字も読めない、書けない、君みたいに賢くないしつまらないかもしれないけれど、命尽きるまで僕は君の傍に居る、という言葉を貰ったことを、しっかりと覚えている。彼も、私と同じように術使いだった。ヒューロアの血をひく私が持っているのは水を操る強力なものだったけれど、クルクスは豊穣の土を耕し、時には変形させるそれだ。
 忌まわしい壺はその瞬間、宝物へと変わった。彼はその中に沢山の土を入れて、私の好きな花を季節ごとに毎年、ずっと植え続けた。乾季と雨季、様々な種類の花はどれも見事な美しさを誇り、ヒューロア・ラライナの石畳の街で一番である、と誰もが認めるくらいのものだった。でも、私は、その壺を抱えて、頬に土くれをつけたまま笑う彼が何よりの宝物だった。彼が、その60年後に死んでしまうまでは。
 その朝、彼は、最早片時も傍から離さなくなった壺をいつものように手入れし、何故か蓋を閉めてからひとつだけ溜め息をついて、これを見る度に僕の育てた花たちのことを君も思い出すかい、と、私に向かって言った。ぽっかりと何かが心の中から抜け落ちていった気がしたことは、今でも鮮明に覚えている。昼寝をすると言って、クルクスはそのまま逝ってしまった。
 花を見ると彼を思い出して、辛くなった。思い出たちはどれも色彩豊かで薫り高かった。私には真っ白の行く先しかなかった。荷物をまとめていく私の皴のない手は全く月日を感じさせず、全てが夢の中の出来事だったのではないかとさえ思えた。レファントの森へと移り、大陸に宿る元素や術の研究を始めて、脇目も振らず数百年が過ぎた。
 いつの間にか、私の元に西の国から耳の尖った優美な一族が訪ねてきて、研究所が出来た。噂を聞いた者がちらほら集まってきた。それが日常となって、私は段々と増えていく人員を組織化する作業に追われるようになった。森の小屋が、いつの間にか学園都市となった。組織は、魔法学院ラ=レファンスと名を持った。
 だけど、私そのものは変わらなかった。捨ててくることも置いてくることも出来なかった壺を、小屋の薄暗い隅っこで目にする度、鮮やかな花々の思い出がむせ返るような香りの数々と共に蘇った。記憶している香りの中に、たった一つだけ花のものではないのがあった。遅い来る花畑から逃げ惑う中、私はそれが自身の体を不老不死にしてしまったエルフの薬のものであることに気付いた。
 喉に花がつまり呼吸が不能となりゆく中、私はその薬を作ったエルフを呪った。声が出ない。使った叔母を憎んだ。保管していた母を恨んだ。
 何より、手を伸ばしてしまった私自身を許さなかった。私は手を伸ばした。壺に手が触れた。今度こそ叩き割ってしまおうと、両手で掴もうとして、滑り、けたたましい音を立てて落ちて割れたその中から、はらりと落ちる。茶色くて経年劣化した革か布のようなものは一体何年前のものだろう、私はそれを掴もうとした――

 夢など、久方振りに見た。見たこともないものが最後にはらりと落ちてきて、私の心はいささかざわついた。
 寝床から起き上がって窓の外を見る。夜明け前の金色の光が闇夜を青に染め、星々は舞を終えて退場しようとしていた。少し早すぎたかと思いながらも、このまま再び眠る気にはなれず、私は立ち上がってブーツを履き、小屋の戸を開けて外へ出た。
 湖畔は柔らかく湿った風に揺れ、肌からじわりと汗がにじみ出る。レファントの森は熱帯地方で、盆地だ。日差しは木の葉がさえぎってくれるが、うだるような暑さに耐えられず、1の月から入ってくる学院の新入生は雨季の始まるこの5の月の半ば頃から退学する者もちらほらいる。学ぶ以前にそちらの厳しさも加味しなければならない。近年、この大陸の北東にあるサントレキア大陸のトレキアという国家の首都に分校が設立されたが、研究所は此方の森の中にしかない。
「おや、おはようございます、ミストラル先生。早いですね」
 声を掛けられて顔を上げると、柔和な表情と尖った耳が目に飛び込んできた。
「ローダ先生。いつもこの時間に?」
「暁の刻にしか咲かない、貴重な花があるんです」
「花……」
 ローダ先生――アステリ・ローダは瞬きをして、首を僅かに傾げた。先程の夢の中にいたクルクスが瞼の裏に焼き付いている、笑顔。
「どうなさいました?」
「……昔のことをね」
 何でもない、と言えなかったのは、目の前の者が永き時をずっと生きる種族である故か。私は暫く、黙っていた。
「ミストラル先生は花がお好きでしたか」
「ええ、好きだったわ、娘の頃は」
「今も娘のようにお美しいでしょう、貴女は」
「あの頃と今とは全く違うわよ」
 苦笑いを思わず零して、東の空を振り仰ぐ。学院の者たちにとっては新しい朝だ。木々の葉の間からぽろぽろと落ちてくる黄金の玉は森の音と共に囁き、下生えの中を彷徨っている。
 私が永遠に手に入れられないものだ。
「私は朝がとても好きですね。今日も晴れそうで何よりです」
 アステリはそう言って太陽のように微笑んだ。この人も、私とは別の世界に住んでいるに違いないと思えた。その横顔は、在りし日のクルクスにとてもよく似ていた。そして、私は経年劣化したもののことをふと考えた。

 夢についての学問はまだ学院において研究を進めてはいなかった、と私は把握している。こんなことを考えてしまうのもやはり、今朝方見たもののせいだろう。ずっと気になって仕方がない、今まで見たこともなかった……あれは紙ではないだろうか。壺は今も小屋の中にはあるが、しっかりとふたを閉めたまま、ここへ来る前から――クルクスが最後にふたをしてから、開けていない。
 あの人は、もしかしたら何かを残していたのだろうか? 私は思い付きにとらわれ、図書館司書としての仕事も半ば上の空だったのではないかと思う。気が付けば後5の刻を過ぎており、閉館まであとわずかとなっていた。
「ミストラル先生」
 ぼうっとしていたところに、再び人だ。はっと顔を上げると、最終学年である5年生で今年卒業の者だ――髪が黒い。
「あら、ルキウス・ラッシュル=レフィエール君」
「課題と、昨年度からの報告書を」
「ご苦労様、面倒事をありがとう」
 成績に加点してやろう。程よい厚みの柔らかそうな唇、すっと通った鼻筋、歪みのない弧を描く二重に、尻上がりで細めの眉、ルキウスの顔立ちはとても美しく整っている。彼は、ドラゴンの言葉を理解し、喋り、この学院を巻き込んだ彼の一族とドラゴン族との争いを鎮めた類稀なる生徒だ。そして、私の叔母の子孫でもあった。
 可愛くないと言ったら嘘になる。
「報告書には父の出自と母の旅路、俺の本当の生い立ちも書いたんですが、構わなかったですか?」
「……そこまで詳しく書いたの?」
「後に残るなら、と思って。父が全て悪かったわけではないのも確からしいですし、ラライーナの夢でも、そこに偽りはありませんでした」
「夢、ね……」
 私はエルフの薬のことを思い出していた。母が、かぐわしい香りをほんのひと匙舐めてしまった私に言ったのは、この薬は約束の地の人々から頂いてきた力を触媒として使用している、そこの人々はかれこれ数千年もドラゴンか何かの力で存在し続けているから、間違っても飲み込んではいけなかったのに、ということだった。私は死ねなくなった。
「先生、どうしました?」
「夢のお告げって、あるのかしら」
「俺は……俺に限ったことかもしれませんが、ありますけど」
「それって、ラライーナの貴方だからある、ってことよね」
「まあ、そういうことですね。正当な継承者には当然、あります」
「約束の地にいる人も、そうよね」
「ええ、俺は行ったことはないですけど、あそこは継承者が肉体を失った後も存在し続ける場所で……行って、挨拶しといた方がいいのかな、俺」
 うわあ、などと言いながら、ルキウスは苦い顔をした。単純に、遠いのだ。
 興味がないと言ったら、嘘になる。
「それも書いといて、ルキウス君」
「あ、そこは問題ないです、注釈として別紙にまとめたんで」
「……貴方、やっぱり優秀よね、残す人としては申し分ないわ」
「中身を見る前からそれを言うのはやめて下さい、先生」
 私は、目の前にいる生徒の与えてくれた情報と、それによって出てきた自分の中のある思い付きに夢中になっていた。
「まあ、後でじっくり見るから。場合によっては今後の研究の材料や重要文献として扱うかもしれないけど」
 ルキウスが形の良い顔に驚愕を浮かべ目を剥いていたが、あながち冗談でもない。彼は生ける伝説なのだ。

 図書館の閉館時間が来ると、私は書庫の全ての本が在るべき場所に収まっているかどうか確認し、幾つも存在する閲覧室の高架本棚を術式で全て床へ下ろしてぎっちりと本棚と本棚の間を詰め、それから各部屋の錠前を5つずつかっちりと締め、星の降る夜と木々の囁きに労わられながら、ようやく自身の小屋へ帰ってきた。
 様々な音が、小屋の中に満ちていることに気付いた。
 きい、と戸のきしむ音、木と金属の蝶番。後ろからついてきていた木々の囁きは、私を追い抜いて、早くおいで、おかえり、と中で微笑んでいた。学院の研究棟に全ての実験対象や研究結果を移したせいであまり物のない殺風景な部屋ひとつなのに、どうしてか沢山のものに囲まれているように思えた。
 風が、ことりと音を立てた。そこにたったひとつ、壺があった。
 息を呑む音が私の耳に届いた。私のものだった。
 私はたった今、初めて、壺の底が平らではないという事実に気付いたのだ。それは音を立ててことこと揺れている。
 何の迷いもためらいもなく近付いて、両手で持ち上げた。クルクスのあたたかい手を思い出した。少し傾ければ、中でかさりと何か紙のようなものが擦れる音がした。
 この壺は、薬壺から花壇になって、空になった筈だ。全て過ぎ去ってしまって二度と変えることの出来ないものが全てここに詰まって、何かを生み出すものではない筈だ。
 丸い机の上に壺をそっと置いて、中を覗き込んだ。暗くて見えない、小屋の中の灯りをつけた。それでも見えない。私は手を突っ込んだ。
 何か紙のようなものに指先で触れた。劣化が恐ろしくてそうっとつまみ出すと、それは竜皮をなめした非常に高価で丈夫な紙の端切れだった。折り目が、2回。
 頭の中で誰かが、彼は土使いではあったけれど、字を読んだり書いたり出来なかった筈だ、と言った。
 折り目をひとつ開いた。何か固いものが挟まっているのに気付いた。
 2つ目の折り目をそうっと開いた。手のひら大になった竜皮紙に、黒いインクがにじんでいた。不器用で歪んだ人の顔が幸せそうに真ん中で微笑んでいる、上に重なるのはたったひとつの花の種――私は囁いていた。
「クルクス」
 途端、それが合図だったかのように花の種がきしみ、ぶわりと光を放ち、芽吹き、根を伸ばし、萌ゆる緑に包まれながら蕾をこしらえ、ぽん、と音を立てて、やさしく鮮やかな青い花が微笑むように開いた。
 私は黙って泣いた。土の術だった。

 雨季の始まりを告げる湿った風が肌に溶ける。
「おや、ミストラル先生。今日も早いですね」
 夜明けとともにいつもこのあたりを訪れるらしいアステリの声に、私は手を止めて振り返った。
「あら、おはよう、ローダ先生」
 その先で、彼はおや、という風に首を傾げ、好奇心を笑みに乗せている。エルフの目は私の手元に興味津々だ。
「土いじりですか?」
「うん、そうよ」
 存外に、明るい声が出たのに、我ながら少し驚いた。私は笑った。相手も笑った。
「楽しそうですね。私も、混ざっても?」
「頼むわ。この小屋の周り、全部掘り返したいの」
 あれから寝ることを忘れ、私は小屋の周りを整えるべく、学院の倉庫から農具を拝借してせっせと土を掘り返し、空気を含ませることにした。とはいっても室内にこもりっきりのこの体でいきなり重労働など円滑に出来るわけなど全くなく、ようやく入り口側の一辺が終わったばっかりだ。
「お安い御用ですよアンサス・ミストラル、貴女の為なら……あ、でも、花を採取してきてからでいいですか?」
 服の腕をまくりながら、アステリはにっこりした。
「勿論、待ってるわ。でも早くしないと、講義の時間よ」
「1回ぐらい自学実習でも大丈夫でしょう」
「珍しい、真面目なエルフ先生が」
「たまには、いいでしょう……おや」
 と、そこで彼は何かに気が付いて、私のすぐ隣に視線をやった。
「エルフの壺じゃないですか……いい花壇ですね」
 青い花をひとつ、壺に土を入れて、植えた。そのうち種が幾つも採れるだろう、そうしたら沢山増やせる筈だ。私は色んなことを思い出していた。彼は生きていた、そして死んでしまった。けれど、私は生きている。じわり、と汗を肌に感じる。もうすぐ日の出がやってくる。
 彼は生きていたのだ。土の香りが、いとしい。
「いいでしょう、私の宝物よ」



《アンサスへ》
2014.5.23 10周年に即して


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